私は私だけのみかた

しかし真に利己的に行動することは尋常の知性では難しい。

承認関連の話題を続けます

読んでいただいた皆様に感謝を

よしここは「あなたに読んでいただけてよかった。ありがとう」とかくべき。
しっかしあいかわらず非モテ無断リンクでしか人が来ないなあ。ここはらいとのべるのかんそうぶろぐなんだぞー(むなしい)(だったらぐにゃっとした印象ではなく批評に耐えうるような書評をちゃんと書け)
さて、ブクマコメントを読んで思ったことを書こう。考えがすごく発散したので、ひとつにはまとめ切れませんでした。

他者を承認する困難性

強烈に他者を承認する言葉がある。「あなたに出会えて良かった」「今まで生きていてくれてありがとう」「あなたは既に許されている」とか。しかしこれらの威力は簡単には言われた者の心まで届かない。
威力が大きすぎてうそくさい。上っ面を滑ってしまう。直撃させるためには、その言葉がその状況その発言者から語られることがレアである、被承認者が発言者を既に承認している、など他の条件を必要とする。
何の前提も無く「あなたにはその価値があるから」を連発すれば上っ面を見事に滑ってくれるだろう。

最も必要なこと

何よりも必要なのは自己で自己を承認することである。これさえあれば他者からの承認など要らない。しかし私は他者からの承認なくして自己を承認することができない。簡単に言えば自信がない。

なんで基本が自己否定なの?

それは私自身が知りたい。幼稚園の時に気分よく書いた絵に大きなバツをつけられて泣いた時からかもしれないし、夜逃げした夜からかもしれないし、容姿や体力をからかわれた小学生の時からかもしれないし、川で鮎や鱒を殺して焼いて食べた時からかもしれない。
私は無意識に「生きても良い理由」を探して生きている。無条件に「生きているから生きてよいのだ」と構えることができないのだ。

楽に自己を承認する方法1

自己の存在を細かく細かく分析していけば、人類のほとんどは誰かと交換可能な平凡な製品に過ぎない。容易に自己承認するには視野を狭めて自ら井の中の蛙になるのが楽だろう。半径5メートルで褒めてくれる人がいればよい。半径5メートルに承認してくれる人がいればよい。なんかここは不良・DQN・暴走族・チンピラ・亀田兄弟問題に繋がる気がする。地元じゃ負け知らずローカルヒーロー(二人で一つだった)。地元の下り最速(1600ccクラスにおいて)。

レアモンゲットだぜ

ローカルの極みとして存在するのが1対1を基本とする人間関係、恋愛である。恋愛では誰でもオンリーワンの地位を占めることが可能であるといわれている。他の誰でもないあなたが良いの、ってなもんだ。
非モテの行為のうち、恋人からの強烈な存在承認がほしいと考える行為は、その男女の交際が極めてレアであるという価値観に立脚しているのではないだろうか。極めてレアであるとすれば、そこで「恋人にする価値がある人間である」と承認されれば「こうかは ばつぐんだ!」
しかしそこで、男女の交際は通常の社会行為であるという世間一般の常識を保持した人と交際してしまうと半減する。「たくさんストックはあるけどまあ状況においてベターなので『ピカチュー、君に決めたっ』てことでー。」では非モテにとっては他者からの承認が不足してしまう。そのため自己を十分に承認することができないのだろう。

楽に自己を承認する方法2

自己を肯定・承認するのにとても便利なものがある。宗教だ。
しかし私の信じている事の一つに「宗教は承認の欠乏に陥った人間が無限の承認行為を発生させるために発明した装置である」というものがあるため、宗教から承認を引き出すことができない。
同様に、神からも承認を引き出すことができない。荒ぶる自然を表現したものではない神、いわゆる救いの神は、宗教と同じく人を存在肯定・存在承認するための装置だ。それが私の解釈だ。
それら神や宗教が人を承認するのは当たり前である。そのように創られているからだ。マッサージチェアが背中や肩をもんでくれるのと同じだ。凝った肩を労わってくれているのではない。そのように創られていて、電源があって、スイッチが入るという条件を満たしたから揉んでくれるのだ。戒律を守り、ルールを守り、善良の条件を満たしたから自動的に救済をばらまいてくれるわけだ。それらは、そんな装置。

メイドロボは女神である。

現代の技術の延長線上において人間を主人とし労わるようなメイドロボが完成したとすると、上記の私の考えからすればそれは正しく女神なわけである。マッサージチェアだから。無条件に人間をたすけるように人間に作られた装置。無限の承認装置。

ドールやペットや盆栽は神である。

何らかの対象があって手間をかけることが悦びになる趣味というのは、その手間をかけることで自己の存在を肯定するよすがになる。「部屋に帰らないと猫死んじゃうんで」「わしが枝を整えてやらねばだめになってしまう」という形で。

その限界を超えてこそ

設定された性能を超えて人間の承認をしてくれた時、それは尊い。その神は限界を超えて神以上の何かになっている。だからこそ有難い、美しい。そのへんがアトムだったりマルチだったり。飼い猫が慰めてくれたり。

あなたに承認を

ごめんなさい最後がぐだぐだになりました。
最後まで読んでくれてありがとう。あなたに読まれることで私は少し自分を承認できたと思うよ。